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一枚の年賀状が返送されてきました。
理由は、『本人退職』欄にチェックが入っており、その横に手書きで、
(お亡くなりになりました、2012/11月)
とありました。
まだ60代かと思いますので、ショックでした。。
(知らずに、13年も14年も年賀状送っていました★)
この方には、お世話になりっぱなしで、
私も若くて、無知でしたので、今思うと、恥ずかしい、
弱輩のしょうもないことで大騒ぎの、小迷惑なことばかりだったかと。。
すみません、ごめんなさい、たくさんありがとうございました。
生前に、きちんと御礼がしたかったです。
なにがあったかといいますと、
まず、篠原さんというのが、IT機器系の大企業で20年人事を務め、
その後、上司と、その企業のグループ会社を起こし、
これまた、成功させ、その会社の取締役副会長、最終的に顧問になられていたかと。
まあまあな企業なので、経済ニュースで、何度か人事を確認できました。
出会いは、20年前、東海道新幹線で。
当時、私は就活中で、大阪、東京、金沢を行ったり来たりしており、
病み上がり、留学、短大でしたので、日本社会もよく分からず、
修飾氷河期の短大卒では、自分のやりたいことがどこまで実現できるかも定かでなく、
とにかく、模索の日々でした。
新幹線で、座席に座り、ノートをだして、今日面接を受けたところなどまとめたり、
今後のスケジュールを確認したり、履歴書を記入していましたところ、
たまたま隣に座っていた男性(篠原さん)が、
「君は就職活動中なのか?」と声をかけてくださり、
ご自身の素状を明らかにして、
私のノートや履歴書を見て、アドバイスをくれたりしました。
「君は大手に就職できると思うよ。」
とまで、言い残してくださり、
普段はこんなことはしないんだけどね、と、名刺と携帯番号だったか、個人のご連絡先まで
くださり、
「困ったら、連絡していいよ」と。
実際、精密機械の大手企業に内定もらえましたし、
それで、すんなり、終われば良かったのですが、
私が密かに憧れていた、マスコミ、大手出版会社の最終選考や、地元TV局の二次試験など
残っており、
短大卒には不利と知りながら、また、自分は本当はまだ就職には早い器だと知りながら、
精密機械の大手を諦め、マスコミに挑んだのでした。
そこからが、まあ泥沼で、
就活中の学生の身分で、
こともあろうに、上場企業の中核にいらっしゃる篠原さんに連絡しては、相談し、
まあ、たわいもない弱音など吐いたり、頭に乗ったことを吐いたり、
恥ずかしい★
お手紙も何度かいただいたことがあり、
「君は私の若いころに似ている」と、励ましいただき、
結局、マスコミではなく、上場はしている名古屋の信販企業の本社で国際業務をさせていただけることになり、
(実は、もし、私が採用されない時を考え、自分の会社の新卒枠を空けてくださっていたとか)
その後、名古屋で、お食事をご馳走になったことがあり、
(高そうなところを連れていってしまったような。。。汗)
「最近、私は見る目がない」と、恐らく私も含めたご自身の人事の事で、残念なお言葉を頂き、
一方で、国際業務の職場の先輩、同僚と、おりがあわず、異動になったこともあり、
その時は
「人事部は人をちゃんと見ていて、必要な人材をちゃんといれているのに、そうやって、今までと違うタイプ子を入れると、そこの部はグチャグチャ言って、その子を追い出す。でも、その部は最終的に小さくなっていくんだよ」
といい、
実際、その部は、私の後任が定まらず(みんな1年ほどで辞めてしまう。)、
なんだかんだしているうちに、他の部門に取り込まれてしまっていたようです。
また、趣味の絵画を続けており、
日本表現派という中規模の団体の展に、入選した連絡をしたら、
密かに、仕事の合間に、見にいらっしゃっていたようで、
手短に感想を手紙にしてくださいました。
その後、私は調子にのって、
東京で、フランス人と、謎の、抽象的な、???の個展をしたり、
それも、見に来てくださりましたし、
しょうもない、小説も書いて送ってしまった。。。
なんだか、わけわからないですね★
関係ないのに、お忙しいのに、ごめんなさい。。
その後、年賀状で、近況をおしらせしたりさせていただいでました。
一体、なんだったのか、本当にお恥ずかしい、
自分のことしか見えておらず、
きちんと御礼をしよう、と思い、タイミングがないまま、でした。
篠原さんは、いつも全国を飛び回られて、「殺人的状況」とおっしゃっていました。
お疲れになったことでしょう。
努力を、成果、結果に残せた生き様は、尊敬です。
ごゆっくりなさってください。
たくさん、ありがとうございました。
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